雪男

9月16日(金)

雨の一日。台風の動きが気になります。

今日は、なんともいえないむずがゆい日でありました。

昨日、何をどう勘違いしたのか自分でもよくわからないのですが、仕事の組み立てを完全にミスしてしまいました。今日からしばらく雨の周期に入るので、その前に白菜やキャベツの苗の植え付けを終わらせてしまうチャンスのはずでした。が、「あと数日は本降りにいはならないで曇りのようだ」という思い込み…。

この降り方と、天気予報によれば、あと1週間は植え付けは無理でしょう。植え付け適期を過ぎて苗がポットの中でちじこまっています。はやく植えてしまいたい…。なんというかなあ、最近この手の思い込みミスが多いです。植えつけた後でパオパオ(保温の不織布)をかけておけばぎりぎり間に合うとは思いますが、なんともいえないもどかしい気分。しかも、恥ずかしながら昨日同様にタンクに水を汲んでいろいろ水遣りをしてしまいました。水遣りにかけた僕の3時間を返してくれ~。と、誰に訴えていいのか分かりません。叫んでみても、自分にボディーブローのように帰ってくるのみ。はあ~。情けない。自業自得。


というわけで、また雨が続きそうなので、来週はセットの中身がいまいちになりそうです。

保存してあるもの ジャガイモ、玉ねぎ 
いい感じのもの  ピーマン オクラ、ニラ、間引き人参葉、 
まあまあのもの  三尺ささげ、四角豆、ナス
少ないもの    つるむらさき、かぼちゃ、にんにく、インゲン、キューリ、ゴーヤ

あとは、卵。といった感じです。小松菜やサニーレタスを入れられるまであと10日くらいはかかりそうです。夏野菜さん、もうひと踏ん張りっ!



さて。だらだらと長くなりますが、一冊ご紹介。

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雪男は向こうからやって来た 角幡唯介 集英社

前作のデビュー作「空白の五マイル」で、開高健ノンフィクション賞、および大宅荘一ノンフィクション賞をかっさらった角幡氏の新作です。

ヒマラヤの山麓には、雪男とよばれる謎の生き物が生息していると言われています。霊長類の一種ではないかという説がありますが、その姿を鮮明に画像に収めた人はいません。ヒマラヤに登山に来たクライマー達や、地元の集落に住む人達の間では、たびたび目撃されています。ですが、その目撃談はどこか謎めいたものが伴い、科学的にも、いまだ実証できていません。

著者は、ふとしたきっかけから、「いったい本当に雪男はいるのだろうか」と半信半疑のまま雪男の捜索隊に参加することになります。捜索の旅の記録と、目撃者へのインタビュー、雪男に魅せられた人物達のヒューマンドラマ、歴史的考察などが、主観と客観の両方の視点をもって立体的に織り成されて物語はすすんでいきます。

今の時代に、何を…。雪男なんて、どうでもいいよ…。そもそも興味が全くわかない…。雪男という言葉を聞いて、多くの方はそういうネガティブな印象を受けるのだろうと思います。しかしながら、読み物として、実に面白いのです。気がつけば、雪男のイメージやヒマラヤの谷の光景、隊員の人となりまでもがページをめくるたびに鮮明に浮かぶようになっていくことでしょう。

雪男に魅せられた人達にとって、雪男は向こうからやってきたものであるようです。こちらが求めて出会うものではなく、向こうから。そう、向こうから、未知なる、何かが、やってくる、ということ。

それは、必ずしも雪男ではなく、他の何かでもいいのかもしれません。そこに足を踏み入れると危険なことは分かっているけど、どうしてもそうしたくなるような、何か。それらに魅せられてしまったときに、人は自分の人生をどのように歩んでいくのか。そのような何かがある人生とはどういうものなのか。

時代や国を思えば、憂うことばかり。我が暮らしを思えば、些事にふりまわされる毎日。そんな今だからこそ、たまにはいつもとちょっと違う視点から自分の立ち位置を見直してみたい。そういう時の、清涼剤みたいなものなのかもしれません。そう思える、一冊です。ぜひぜひ。

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2011年09月16日 トラックバック:0 コメント:0

空白の五マイル

11月23日(火)

今日もまた快晴の一日でした。

出荷。明日の出荷用意。里芋貯蔵の仕上げ。などなど。




ここ数日のスナップ。

日曜日に熊本県立大学で行われた有機フェスタに足を運び…、

キャンパスの中庭で目にはいったもの。

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等身大レゴブロックとでも表現したらよいのだろうか。子供たちも楽しそうな様子。造形美を感じます。うまく表現できないのでもどかしいけど、なんか、いいなあ。




玉名のちゃぶ台にて、内田ボブさんの唄と、詩人ナーガさんの朗読。

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さらりと聞いて深く理解するには、僕にとってはちょっと難しい言葉がつむがれていたのですが、空間の雰囲気がとても心地よかったです。満足でした。美しく、かっこよく、年をとれたら素敵だなあ、と感じました。




久しぶりに、読み始めたら止まらなかった一冊。

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空白の五マイル  チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む 
角幡唯介 集英社


コテコテの探検読み物です。でも文章がユニークで、読みやすいです。タイトルの通り、著者が単独で未踏の大峡谷を目指すという話です。著者は自身の探検の旅を通して自問していきます。もはや探検する場所すらないとも思える現代における探検や冒険の意味とは何ぞや、よりよく生きるとはどういうことや、と。

日常生活の中ではついつい忘れてしまいがちな、「物事の本質を見据える視点」のようなものが、冒険や探検や登山という行為の中では求められるようです。同じ体験はできなくとも(というよりも、普通の人なら誰もやりたいと思わないような行為ですね)、読書という追体験の中で、そのような「何か」を感じてみるのもよいことなのかもしれません。ある意味では、今の時代の閉塞感を打破するヒントのようなものを得られることもあるように思えます。

著者の角幡唯介とは、一時期よく一緒に山にいっていた間柄です。濃くつきあったのは短い間でしたが、その人柄に強烈な印象を受けたものです。当時は彼も僕も大学卒業後のフリーター暮らしでした。一緒に土木作業員として住み込みの現場でアルバイトをしたこともありました。彼が作る賄いの「角幡カレー」はショウガやにんにくが効いていてとても美味で、社員のみんなにも大好評でした。

僕も負けじとあれこれ工夫してカレーを作っていたのですが、社員のみんなが口にする「なんだ、今日の晩飯はカバが当番か」というちょっと残念そうな顔が今となっては懐かしく思い出されます(笑)。そう、確かに、角幡カレーは、おいしかったのです。

その後彼は新聞社に入社したもののあっさりと5年で退社。再度探検や山の世界に身を投じて、いまや、冒険や山を専門とする若手ライターとして足場を固めつつあるようです。この本は、今年の集英社ノンフィクション賞を受賞し、発行にいたった一冊とのこと。いやはや、人生何とかなるもんだなあ。

ぜひぜひ皆様、お買い求めの上、ご一読ください。面白いです。


角幡唯介のブログはこちら。 「仏の顔も三度まで」




2010年11月23日 トラックバック:0 コメント:1

アンダンテ

9月2日(木)

今日も暑い一日でした。でも、最高気温は30度どまり。ありがたや~。

ジャガイモ掘りをいいかげん終わらせたくて、ご近所農家仲間Kさんに助っ人に来てもらい、ばんばん作業が進みました。これまた遅れに遅れていた春カボチャ後の片付け、畦草刈り、堆肥撒きなども進みました。これでなんとか作業の遅れを取り戻したかな、という感じです。

以前火事を起こしそうになってしまった畦草燃やしも、

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コツを掴んできたようです。自己評価が低い傾向のある自分としては、なにかと「あんまり成長してなあ」といつも感じるのですが、ちょっとしたことで「あれ、意外と上手意なっとるみたいだな」と、感じられるのは嬉しいものです。

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黄昏時に、「いやー、よく動いた。よく頑張った」と、満足モード。思わず写真。

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でもずれてました(笑)。



さて。

先日、旭爪(ひのつめ)あかねさんの「稲の旋律」を読みました。

稲の旋律

旭爪さんは、異色の経歴をお持ちの作家さんです。大学卒業後、会社勤めを経て、9年間引きこもりの生活を体験。その体験をもとに作家活動に入り、社会派の小説を世に送り出しておられます。

稲の旋律は、旭爪さんの代表作です。大雑把なあらすじは、こんな感じです。

主人公の千華は30歳の女性。子供のときからずっと「いい子」だった彼女は、親の期待に応えるべくピアノの勉強を続けていた。ところがふとしたことから大学に行けなくなり、バイトなどもうまく続かない状態になってしまう。社会との接点を失いかけていたが、30歳を前にしてようやく親のつてで就職する。しかしその会社もすぐに辞めてしまい、そのままずるずると引きこもり状態に入ってしまう。昼夜も逆転した生活となっていたある日…。

親に背中を押され、勤めていた会社にお詫びの挨拶に向かうことになった。だが会社のある駅で降りることができなかった。そのまま電車に揺られ続け、いつしか田園風景へとたどり着く。そこで、ゆれる稲穂を見て、心の奥の中かが揺さぶられた千華は、とあることを思いつき行動に移す。

今の自分苦しい気持ちをつづるSOSの手紙を書き、ペットボトルの中にいれる。そして、それを美しい田んぼのなかに「置いた」のだ。

しばらく後に、田んぼで手紙を見つけた百姓の晋平から、千華のもとに手紙が届く。ゆったりとした手紙のやりとりの中で、晋平は千華の抱える苦しさと、その原因となる家族との関係や、競争社会そのものの問題を考えるようになる。千華は、晋平の言葉から、自然と向かい合って生きることの潔さと、現代の「農業」が抱えている問題を学ぶようになる。

いつしか、千華は晋平のもとを訪れるようになり、農作業を手伝ったり仲間と触れ合ったりしていく中で、人としての力強さを少しずつ取り戻していく。

あとは、まあ、お決まりの恋物語か!?という感じではありますが、それは読んでみてのお楽しみ、ということにしておきますね。



旭爪さんは、この話を書くために、いろいろなことを相当に勉強されたのだな、と感じました。まさしく晋平さんの志している農業を実際にやっている自分としては、よく描写してらっしゃるなあ、と感心してしまいました。「いやいや、実際はもっとこうだよ」とか「そんなことやってちゃだめだよ」とか「ちょっと青くさい表現だなあ」などなど、突っ込みを入れたくなる箇所もありましたが、それを差し引いても、読みやすくて引き込まれる文章でした。

そして、何より千華の抱える心の問題も、ご自身の体験抜きには絶対に表現できないような繊細なものでした。読んでいて、痛々しく感じるほどに。読み込んでいくにつれて、感情移入している自分がいました。

映画化もされています。

アンダンテ

自主上映か、あるいはそれに近いような単館上映で、全国あちこちで上映されているようです。熊本市近郊ではまだなので、楽しみです。いつになるかわからないけど。

映画では、「アンダンテ ~稲の旋律~」というタイトルです。アンダンテ、とは音楽用語で「歩くような早さで」という意味だそうです。実にいいタイトルです。アンダンテ。いいなあ。


晋平の農業のような「場」。それは、千華のような人にとって、必要な「場」です。みんながみんなアンダンテでいってたら、今の社会は成り立たなくなってしまいます。完全に昔の暮らしに戻ることは、おそらく不可能です。でも、アンダンテでいきたいんだ、という人がリラックスして生きられる場が今の世の中にはあまりになさ過ぎるように思えます。怖いことに、それが国という単位ではなく、全世界の潮流として襲ってきているようです。経済成長という名の「信仰」が世界中の人々を包み込んでしまいそうに思えます。

でもそこに必要なスピードは、もはや「生きもの」としての人が耐えうるものでは無くなってきているのではないでしょうか。俺は「人材」ではなく、「人」だ。と、どれだけの人が声にならない声をあげているのでしょうか。

晋平の志す農業は、非効率な農業です。手間がかかります。有機とか、無農薬、循環型農業、と言葉でいうのは簡単だけど、それで生計を立てるとなると、また別の話です。でも、晋平のように、今の時代には「敢えて」そこに身をおく人がいます。「もっと自然のリズムの中で暮らしたい。」「田舎で子育てがしたい」でも、「田舎には仕事がない。」「じゃあ、農業だ。自給自足だ。」という考えが自然に頭に浮かぶというわけです。。実際、僕もそうですが、周りを見渡してみると、同じような考えをお持ちの方がとても多いなあ、と実感してしまいます。

はい、ここで、大きなジレンマです。

普通の農業で、勤め感覚のお休みと稼ぎを得ようと思ったら、なかなかアンダンテではいきません。少なくとも農繁期はてんてこまいの慌しさです。他に稼げる手段があれば、アンダンテでいけるのかもしれませが、大多数の人はそうではないようです。このジレンマをどう受け入れ、乗り越え、なだめすかし、開き直って、でもふてくされず、折り合いをつけて、笑いに包んでいくか。

まあ、やり方は人それぞれのようです。初期投資などで親を巻き込む。お金の代わりに精神世界を充実させる。とにかく「今」を生きる。とにかくとにかく働く。人がやらないことをやる。経営感覚を研ぎ澄ます。自給自足を徹底させる。カリスマ農家になって研修生さんの手を借りる。安定した職業のパートナーを得る。などなど。

あんまり真面目に考えてもどうしようもないので、やめておきます。まあ、みんなどうにかなっているし、それでいいのでしょう。さてさて、僕はどんな方向に転がっていくのかなあ。一歩引いてみると、わりと面白いシチュエーションのように感じます。大事なことは、まずはリラックスして流れにのるということなんでしょうね。といいつつも、リラックスか~、これがまた苦手なんだよなあ~(笑)


とにかくひとつだけいえることは、あまり多くを望まない、しなやかなココロさえ持てれば、「農」の在る暮らしはやっぱり素敵です。食べ物がある。ボーナスはないし、生きもの相手なのでサラリーマン的な「きちっとした休み」はほとんどないです。でも見方をかえればクビになって路上に放り出されることもないし、忙しくない時期には「やることは無限にあるけど、毎日が日曜日のようなココロモチ」ともいえます。何よりも、食べ物がある。それだけで、まあいいじゃないの、何を欲張っているの、といつも感じていられたらステキです。


僕が、農の世界はいいなあ、と思った大きな理由のひとつを、「稲の旋律」は思い出させてくれました。旅で訪れた農場や、研修でお世話になった農場で過ごした場の記憶が蘇ってきました。忙しさや「農業経営」のなかで忘れていた「農」の営みの豊かさを、肌が覚えていたようです。

皆で囲む食卓。
何気ない日常のトラブル。
生きやすい人はもちろん、生きにくい人がもっている「素」の優しさや美しさ。


農という舞台の上で輝くそんなことを、また見たい。感じたい。と、思いました。うーん、かっこつけすぎ!?(笑)


とはいえ、それはそれでとりあえず脇において、ちゃっちゃと仕事すすめんとね。今日のふんばりでだいぶん先が見えてきたことだしね。日もずいぶん短くなってきました。農繁期も、なんやかんやで7回表くらいにはきているようです。ホークスで言えば攝津です。馬原まであと少し。でも馬原がまたひやひやさせるからなあ。そこが面白いといえば面白いんだけどね。あっ、ご存じない方にはスンマセン(笑)。

とにかくまあ、そんなこんなで久しぶりに長くなりました。書くことで頭すっきりさせてるなあ、俺。忙しいといいつつもけっこう暇なのかな!?まっ、いっか~。アンダンテでいこうっと。少なくとも気持ちはね。



2010年09月02日 トラックバック:0 コメント:2

告白

7月3日(土)

梅雨も後半戦に入ったようです。激しい雨が続いています。よく降ります。大気の中にはどれほどの水分が眠っているのだろう、と感心してしまいます。

友人がブログで紹介していた本を読んでみました。

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町田康 告白 中央公論新社

明治時代に実際に起きた「河内十人切り」殺人事件をモチーフにして書かれた小説です。天才と称される町田康さんの作品。町田作品は始めて読みました。確かに、なんというか、すごい。圧倒されました。

人はなぜ人を殺すのか、という命題に真正面から向かい合っています。とても暗い話です。暗い題材です。重いです。それでいて、脇役にいたるまでそれぞれの登場人物のかもし出す雰囲気はどこか明るいです。ユーモアに満ちた、饒舌な文体。文章という波が読者に押し寄せてきます。描かれる登場人物は、えげつないし、弱いし、でもどこか憎めないし、流れている雰囲気は、暗い話にも拘らず爽やかですらあります。楢山節考、みたいな感じです。

主人公の熊太郎は、そのあまりにも内省的、思弁的な性格の故に、もがきながら生きています。思っていることが、あまりに複雑に頭の中でぐるぐると回りすぎて、うまく言葉につながらないということに苦しみます。思いついたことを、そのまま、「ぽんっ」と口に出すことが出来ない。そのもどかしさたるや。
彼がだんだん追い詰められていき、結局はとんでもない殺人事件を起こしてしまうわけです。

程度の差こそあれ、たいていの人の中には熊太郎はいるように思えます。そもそも自分と他人は違うものであり、厳密にいうのならば「お互い分かり合えているかどうか」を確認することすら、不可能なことです。そういう壁にぶつかるときは、自我がある限りおこりうるものです。

それを当然のこととして冷徹に受け入れられる人は、くだらない些事にとらわれず、世間や人間関係ばかりに目を向けないで自ら「楽しいこと」の中に身をおくものです。中には、いい意味ですごく神経が太く、「そういう話はさっぱり分からん。いったい君は何に悩んでいるのだい?」という感じでいつも陽気、という人もいます。

でも、熊太郎に共感してしまう人も多いはずです。僕も「おお、熊太郎は俺だ」という念を抑え切れなかったです。なので、ストーリーが終盤に向かうにつれて、気持ちがだんだん暗くなっていきました。でも読み出したら止まらん(笑)。まいったなあ、という感じ。

繊細なココロの持ち主は、どうやって生きていけばいいのだろうか、と読み終えてからひとしきり考えてしまいます。いったんそういうドツボに入ってしまったら、どうやって抜け出せばいいのだろうか。正常と異常の間でもがいている人がどれほど多いことか。はまればはまるほど、分かっていながらもどんどん頭でっかちになっていき、理屈で自分を守ろうとする。気がつけば、ますます自意識過剰になり、自分のことばかり考えてしまうようになります。そう、熊太郎のように。

そうしていつのまにか自分で自分を追い込み、経済的なものやら、複雑な人間関係やら、体の不調などとあいまって引き起こされる哀しい結末の多いこと多いこと。内に内に溜め込んだエネルギーというものは、時には自分を傷つける方向に向かい、時には他者を傷つける方向にいってしまうものなのでしょう。熊太郎は、自分であり、友人知人であり、あの時のあの人であるのかも、と思ってしまいます。

しかしね、いつもこういう重いテーマを突きつけてくる本や映画に接するたびに思うこと。
「人は、各々自分で答えを見つけていくしかない。」

答えなどない、わからないものはわからない。分からないものは分からないままにして、とにかくやれることをやる。動く。というのも答え。
傷みを、分かり合える(と思われる)人と分かち合うというのも答え。
どうしても目が向いてしまうテツガク的命題から目をそらして、目の前の具体的なことだけに集中して楽しむのもまたひとつの道。
宗教もいいかもしれない。
生きることを何かの手段ではなく、目的そのものにしてしまうのもいい。
自分なりの処世術を磨いていくのも何よりの方法。
繊細さを、芸術や文章に昇華させていくのも、ひとつの開き直りとして美しい。
趣味にはまるのもまたよし。

そうして、よい時間を積み重ねていくうちに、だれかのために時間を使ったり、自我が消えたりする至福を感じられるようになれるのかもしれない。



まあ、人それぞれなのだろうけど、僕はといえば、なんというか、「暮らし」そのものが、ひとつの答えなのかも。という気がしてしまう。うーん、調子がいまいち、また頭でっかちスイッチが入ってしまっている、きついなあ、という時がやっぱりある。波がある。性格ばかりはどうしようもないっす。

でも、そんな時でも。目の前の農作業はこちらの都合など待ってくれません。草はどんどん伸びていきます。まくべきタイミングで種をまかなくてはいけません。大雨が降っていても、出荷のためには収穫しなくちゃ何も始まりません。人の都合ではなく、自然の都合に身を投げるしかないわけです。そうやって、目の前のことをやっていると、なんというか、とてもすがすがしい気分になります。そのうち、波も引いていきます。

あとは、実際に有機農業的な「循環」の中に身をおいてみると、命がぐるぐると回っているもの、そして自分の体も、目の前にいるトンボの体も、まわりまわってつながっているもの、さらにいうなれば自分は地球の一部である、などとちょっぴりスピリチュアルなことを自然と感じてしまうわけです(笑)。

生きもの達と接していると、なんて必死に彼らは生きているのだろうか、といつも思います。自分は、目の前にいるシジュウカラほどに一生懸命生きているだろうか、足元の小松菜のほうが凛と潔く、美しく生きているのでは、と感じることもあります。「何ごちゃごちゃと弱音をはいとるんだ。ぶつくさいわんと、彼らと同じように、ひとつの生きものとして、ちゃんと背すじを伸ばしていかなくちゃだめやろ」ということですね。まあこれも、ほどほど、バランス、の上でだけどね。

はい、そんなこんなで、大作を読んで、ココロの内が、ぞわぞわしてしまいました。ナイーブスイッチ入りまくりです。文学あっぱれ!まあ、やれることをやっていくしかないですなあ。それにしても、はやく梅雨が明けてほしいなあ。と思う今日この頃。やっぱり農閑期は、中途半端な雨休みより、バンバン外仕事を終わらせていくほうが、気持ちがよいなあ。

久しぶりに内省的に長くなりました。ちゃんちゃん。

2010年07月03日 トラックバック:0 コメント:0

挟土さん

6月13日(日)

はやく目覚めてしまった朝に一筆。

先週ラジオビタミンで、挟土秀平さんのインタビューを聞きました。

挟土さんは、日本を代表する左官職人さんだと言われています。独特の色使いや作風、そして自然素材に徹底的にこだわった壁作りや造形作品は、日本全国はもちろんのこと、海外でも高い評価を得ているそうです。

テレビなどにもよく出演される有名な方なようですね。ネットで検索してみたら、いろいろ出てきました。いままで存じ上げなかったのが不思議なほどです。情報化社会から一歩引いている我が身を実感(笑)。

ご自身曰く、若い頃はボロボロだったと。40代から、ようやく光がさしてきたとのこと。そして、その歩みの中で見えてきたことが、作品となり、人々の心を打ちます。その営みの中で紡がれてきた詩(ことば)が、人々の魂を揺さぶります。

番組で紹介された詩を聞いていて、不覚にも、泣けてきました。やっちゃった(笑)。

本も上梓されています。さっそく図書館で予約しました。

のたうつ者2

のたうつ者 挟土秀平 毎日新聞社


挟土さんのHPはこちら。http://www.syuhei.jp/index.html

HPで見つけた言葉。マヤの古謡だそうです。

このようにして
私は消えていくのか
枯れた花
石にすがる蝶
私の名前では何も残ることなく
誰にも知られることもなく
ただ
風であり
声であり…




あと、今日までだけど、東急Bunnkamuraで個展が開かれているそうです。東京にいたら行ってたんだけどなあ。熊本でもやらないかなあ。

ご案内はこちら。http://www.bunkamura.co.jp/gallery/100603hasado/index.html


しかしまあ思うに、こういうふうに、しっかりと生きておられる方を、世間はほったらかしにはしてくれないんだろうなあ。できることならば、「知る人ぞ知る」挟土さんであり続けて欲しかったなあ。挟土さんがそれを望んでいるかどうかは、僕の知る由ではないけど。希望を言えば、有名になりたくないと思っていて欲しいなあ。こういう方には。でもそうなると、僕が彼の詩を聞くこともなかったか。難しいところだなあ。




そう。世界中にいる、あなたに、僕はありがとうと言いたい。

決して目立つこともないままのあなた。
でも、誰に対しても、胸をはれる仕事をしているあなた。
そんな仕事を通して、社会を支えていらっしゃる、あなた。

そんなあなたに、僕もなりたい。




と書きつつ、こんなふうに書いていること自体、自己顕示欲がちらほらしますねえ(笑)。まっ、こういうこともまた、「ほどほど」がいいですなあ。


2010年06月13日 トラックバック:0 コメント:0

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