野焼き

2月27日(日)

朝は晴れ、午後から雨の一日でした。

お昼過ぎまで、地区の野焼き作業に参加しました。

110227野焼き

阿蘇地方は、広大な草原で有名です。美しい景観、牛馬の餌、堆肥や屋根材のための萱、貯水機能、などなど。草原の恩恵は多大なものです。阿蘇の草原は、毎年春先に人が火をいれることで維持されている、二次的な自然です。

うっそうとした森などの原生自然は、完璧なまでの美しさと、時として人の暮らしなど拒んでしまう厳しさを併せ持ちます。それに対して人が手をいれてきた里山では、もっと穏やかな、ぬくもりや、ほっとする何かを強く感じられます。阿蘇地域の草原は、大きな大きな里山、といったところでしょうか。でも、それを維持管理するのは、なかなかの大仕事です。農村の高齢化や畜産農家にとっての厳しい環境から、野焼きのための人手不足がいわれて久しくなります。

地区によっては、都市からのボランティアさんを受け入れ、お力を借りておられるところもあります。課題は山積みですが、よりよい方向を目指して、いろんな立場の方が、議論と試行錯誤を重ねておられます。その恩恵があっての、椛島農園の「阿蘇の大地で育った野菜」というブランドイメージ(大げさか!?・笑)です。やらせてもらえることはやっていかんと申し訳ないなあ、とも感じます。


さてさて。うちの地区の牧野は、放牧の牛のための牧草を植えています。ススキが優先的に生えている「原野」に対して、「改良草地」と呼ばれています。

毎年火を入れるのは、牛につくダニの駆除や、放置しておけば森林へと戻っていく草地を維持管理するため、とされています。しかしながら、「改良草地」の放牧地では、牛によってしっかりと草が食べられており、燃やすほどの背丈の草もほとんど目につかないこともあります。

通常、牧野の火入れでは、ごうごうと燃え盛る草が飛び火しないように、点火の方向やら火消し作業やらで気合と技が必要になるようなのですが、うちの地区ではそういう雰囲気ではありません。なんだかせっかくの年中行事なのだから、パーッと派手にやりたいのですが、そうもいきません。困ってしまいます。あわただしく走り回るような、息が切れるような野焼きがしたいものです。待ち時間ばかりの、ぽわーっとした時間が流れる野焼きは、ちょっとしんどいなあ。集合時間に集まっても、まだ朝露で草が湿っており、なおさらに燃えにくいという状況。そしてみんな異口同音の「燃えんなあ~」。

でも、こういう野焼きであっても、農村の共同作業には、いろんな意味合いがあるのだろうと思います。お互いの顔を合わせて時間を共有していくような場がないと、実際のところ安心してすめる地域を作っていくということはなかなか難しいのかなあ、とも感じます。

野焼きももう5回目の参加。なんだか、気がつけばすっかり阿蘇暮らしにも慣れてきたなあ、と思った一日でした。なんでも慣れてきた頃に落とし穴があるものです。当たり前のことを当たり前と思わずに、暮らしていかにゃならんですなあ。

というわけで、「野焼きに参加させてもらってありがとう、という感謝の念」と「もうちょっとなんとかしていきましょうよ~、という向上心(欲ともいえます・笑)」とのバランスを程よくとっていきたいものです。なんてことを煙に巻かれながら感じた初春のひと時でした。

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2011年02月27日 日々の暮らし トラックバック:0 コメント:0

座談会

2月23日(水)

久しぶりの更新となりました。いやはや、です。

パソコンの調子が悪くなり、新しいパソコンを買って使い始めました。そのセットップすら暮らしのあわただしさの中で後手後手になってしまっておりました。そんなこともあり、我ながらびっくりするくらい間が開いてしまいました。

また、ぼちぼちと更新していくことにします。

今日は、午前中はジャガイモ植え付け予定の畑のトラクターがけ。そして、午後からはちょっと変わった仕事が入りました。「九州の食卓」という雑誌があります。来月発売される号で、南阿蘇の特集記事が組まれるそうです。その一部として、南阿蘇在住の方6人による座談会に呼ばれていってきました。会場は、近所の地獄温泉。湯治で有名な温泉です。

お世話になっている方に「出てよ」と声をかけていただいたので、「ふむふむ。そういうのは苦手なんだけど、たまにはいいか。とりあえず話に乗ってみよう」という気持ちで、どういうテーマの座談会かすらよくわからないまま「いいですよ」と返事をしたという次第です。

が…、雑誌のコンセプトに沿って、「南阿蘇の食材や料理」「南阿蘇の伝統食や調味料」というようなことを話すのだと聞いて、困ってしまいました。いろいろな野菜は育てて販売をしておりますが、「南阿蘇ならでは」という野菜や、こだわりの品種などにはほとんど手を出していません。「人気の南阿蘇になぜ移ったのか」ということにについても、とにかく自然の中で地に足が着いた暮らしをしたいと思い、たまたま生活の経済的な手段として農業を選んだという訳であり…。南阿蘇というのも、たまたまのご縁に乗っただけ…。いったい何を話したのか、自分でもよく思い出せないくらいにしどろもどろになっちゃいました(笑)

そして、各自料理を持ち寄ることにもなったのですが、これまた我ながらいけてなくて、恐縮でした。椛島野菜は美味しいというありがたいお言葉をいただくこともよくありますが、自分で料理するほうはさっぱりです。野菜炒め中心の食生活…。

うーん、こりゃ明らかに人選ミスじゃないのかな~、なんで僕が呼ばれたんだ~、という疑問(と笑い)が自分の心の中で最後まで抜けきらない座談会となりました。それでも、僕の持っていった煮卵が盛り付け方ひとつで本当に美味しそうに見えるようにしてくれるプロの技をみれたり、皆さんとのお話でいろいろ気づかされることもあったりと、よき学びの時間となりました。


さて。

ハウスの中の春菊。

110217春菊

温床の上の、白菜。

110217白菜

だんだん、肌に触れる空気も、春のものとなってきました。しっとりと、やさしく、なめらかな感じ。甘い香りが漂ってくる感覚。そろそろ、虫も、動き出してきそうです。ああ、楽しみです。

2011年02月23日 日々の暮らし トラックバック:0 コメント:0

困った

2月11日(金)

曇天、時折小雨の一日。2月に入ってずいぶん暖かくなりましたが、日差しがないとやはりひんやりです。

ここのところ、ブログ書きがちょっと滞り気味です。相変わらずのあわただしさも一因ですし、季節柄、自然観察ネタの写真が少ないのも然りです。が、本当は、内観やら友人の病気などで、物事を深く考えるきっかけが続いたことにあるようです。

なんだか、珍しいことなのですが、いろんなことが自分の頭のなかではけっこう整理できていて、すっきりと落ち着いた気分が続いています。作業は少し遅れ気味なのですが「まっ、いっか」「無理はしない」「大丈夫大丈夫」「これでいいのだ」という気持ちが、おき火のように心の中でチロチロ燃えている感じです。我ながらびっくりしてます。

これでは、頭の中のもやもやを書いて書いて書いて書きまくるという芸風にキレがでてきません。書くモチベーションが、この4年間で初めてというくらい低いです。書く時間があったら、本が読みたい、という感じ。でも、あんまり間をあけるといかん、と思ってとりあえずパソコンに向かってしまっています。習慣とは恐ろしいものです。

まさかこんな事態になるとは。困ったなあ。なんでも、良いことと悪いことは表裏一体というわけですね。このまま良い感じの状態が続いたら、また新たな芸風を開拓することにしますわ。そうなればいいけど、まさかこのままってこともないだろうしね。まっ、いっか。さてはてどうなることでしょうかねえ(笑)

こういう時に絶対に忘れちゃいけないこと。

やっぱりそれは、待つ、ということだと思います。そのうち自分にも訪れるであろうとんでもない困難や理不尽や苦労に対しても、待つ、という心。「さてさて、コンナン君、いついらっしゃいますか。お待ちしてますよ~。ん、和菓子がお好きでしたよね。はいはい、ちゃんとご用意しておきますね~。」と、どんっと待ち構えてみる心。

そして、コンナン君が、今、偶然に、僕のところではなくて他のどなたかのところに遊びにいっているということに対して、自分が何をできるのか、しっかり考えること。体を、手を、頭を、具体的に使うということ。偶然の上に、あぐらをかかないこと。まあ、出来る範囲でね。



はい、そういうわけで、以下、とりとめのない日記です。


今日は、出荷11箱と、いろいろ片付け。

だいぶ野菜の種類が減ってきましたが、それでも 卵、サトイモ、さつまいも、にんじん、玉ねぎ、ごぼうorヤーコン、キャベツ、ほうれん草、レタスの間引き菜、大根、下仁田ネギ、とまずまず充実の中身でした。

来週の末には、玉ねぎが終わります。不織布を二重にかけてなんとか冬をこしてくれたキャベツも、一気に暖かくなり花芽を伸ばしてきそうな感じです。土寄せで冬を越えた大根も同様です。もしくは、また週末にかなり冷え込みそうなので、寒さで傷んでしまうのかも。うーん、はっきりとは読めません。

毎年この時期は、「いつまで出荷できるかな~」とひやひやします。お客さんの皆様は「ある時にある野菜を送ってくれればいいからね。休むときは休んでね」とおっしゃってくださいます。ありがたいことです。ですが、野菜のお休みをいただいている間にも鶏さんは卵を産み続けます。なので、販売の段取りの大変さを考えると、なるべくならリズムを崩さずに、休みを短くしたいものです。と同時に、出荷だけお休みをいただくことで、毎年4月は植え付け作業や家の雑務をすいすいとこなせています。それはそれでとても楽しく嬉しいことです。

いろんなことの折り合い、バランスをとっていくのはなかなか大変です。まあ、完璧を目指さず、ぼちぼちで参ります。というわけで、今年は、寒波の影響もあり、去年と比べると少し早めの今月末か3月頭でお休みということになりそうな雰囲気です。

また、様子を随時お知らせしていきますね。

2011年02月11日 今週のお野菜 トラックバック:0 コメント:0

しっかりと。

2月5日(土)

立春をむかえ、日中は暖かな日が続いています。今日も、10度を超えてぽかぽかでした。


今年も、温床の踏み込みの時期となりました。今日は、ちょっとにぎやかに作業。さくさくと終わりました。

110205温床

今年は、ひと工夫。毎年、枠作りに時間がかかってしまいます。なんとかしたいなあ、と考えていたところ、よい思いつきを得ました。ホームセンターにある、「ご自由におとりください」のパレットを枠として活用しました。ビス打ちで枠は完成です。しかも、板の間にわらを押し込み、断熱性と通気性もおそらくそれほど問題ないと思います。

あとは、近所のクヌギ林からいただいた落ち葉と、米ぬかと、鶏糞を、水を加えながらまぜまぜ、踏み固めます。微生物の力で発酵熱がでます。ビニールをかぶせれば、ぬくぬく空間のできあがり。一足早い春を作り出し、はやめに種まき、苗作りができるというわけです。伝承農業の技は、美しいものです。

仕上がりのきれいな仕事を、リズムよくこなしたあとは、気持ちがよいです。

110205温床2

午後は、山に入り、薪のためにクヌギの木をいただきました。ご近所の方のご好意でいただけることになり、ありがたやありがたやです。運び出しにちょっと苦労しましたが、いい汗となりました。

110205クヌギ2

助っ人Kさんの、お見事なチェーンソーワークでした。

110205クヌギ



さて。

今朝、友人から「○○さんが倒れて、意識不明だって。聞いた?」と連絡をいただきました。

びっくりしました。

年齢も、僕より少し上なだけ。そんな、そんな…。

それほど濃いお付き合いをさせてもらっていたわけでもなく、お会いすることもごくたまにです。でも、お家に泊めてもらったり、ゆっくりとお話をする機会もなんどかいただいたりしていた間柄です。同じく、新規に有機農業を始めた仲間として、落ち着いたお人柄が心強く感じられる方です。

なんとか、無事な回復を祈るばかりです。


普通に生きていくということは、なかなか困難なことにも思えます。明日も、明後日も、1年後も、10年後も、同じように朝を迎えられる。と、どこかで思い込んでいる自分がいます。人からいただく慈しみやお心配りも、どこかで「当たり前のこと」としてしまっている自分もいます。こわいことです。

「当たり前のこと」など何一つなく、究極的にはひとつひとつのことはすべて「有り難い」ことなのかもしれません。大げさに言えば、今、生きていることそのものも奇跡のようなものなのかも。




しっかりと、毎日を、生きていかないと、申し訳ない。

しっかりと。ゆっくりと。どっしりと。あたたかく。

一歩一歩。大切に。丁寧に。

しっかりと。ゆっくりと。どっしりと。あたたかく。

上を向いて、

歩いてゆこう。


2011年02月06日 日々の暮らし トラックバック:0 コメント:1

内観の感想

2月1日(火)

祝!

冬将軍さま撤退!

ようやく、寒さが緩み始めました。この1月は、本当に、厳しかったです。ほっと一息。あ~、うれしい。


昨日、今日と、出荷作業。そろそろ温床の踏み込みやら、畑の片付けやトラクターがけをしていかないとまずいのだけど、マラソンやら内観で時間を使ってしまい(笑)、なかなか進みません。あれもこれもやりたいというのは自分の性なので、こりゃもう、しょうがない。好きでそうしているのですしね。自分で納得ができる、愚痴のでてこないタイプの忙しさは、幸せのひとつの形なのかも、などと思ったりもしています。


寒波の影響で、野菜の種類をそろえるのが難しいので、

110131大根

いろいろ工夫してやりくりしております。写真は、上部を切り落とした大根。鍬でめい一杯土寄せし、その上から不織布をかけていましたが、やはり上部は凍ってお手上げ状態でした。「いけるかなあ」と思って畑でかじってみたら、思わぬ誤算。びっくりの美味でした。というわけで下半分だけ出荷させてもらってます。



さて。内観について。

先日ご紹介したものと重複するところがありますが、改めて。

お世話になったのは、佐賀駅近くにある、多布施内観研修所というところでした。

1週間、朝5時から9時まで、ほとんどこの屏風の中で座っていました。

110127内観

与えられる課題は、きわめてシンプル。

自分が、誰かに対して①していただいたこと②お返ししたこと③ご迷惑やお世話になったこと をひたすら見つめていきます。はじめは母親、次に父親、兄弟、配偶者、子、祖父母、恩師、友達、同僚、はたまた不仲な誰か、というふうに好きなように見ていきます。内観では、それを「調べる」という表現を用います。大体1時間半おきぐらいに面接の先生が来て下さいます。

そっと部屋の引き戸を空ける音がきこえてきます。それまで楽な姿勢で座布団の上に座っていたのを改めて、さっと正座をします。屏風の向こうから聞こえる静かな声。「お邪魔いたします」。屏風が静かに開かれ、合掌、お辞儀。そして先生の一言「この時間、どたたにたいするいつの自分をお調べくださいましたか」で、面接の時間が始まります。

「はい、この時間、小学校低学年の頃の、母に対する自分を調べました。」「お世話になったことには、こういうことがありました」「それに対してお返ししたことは何々で」「ご迷惑をおかけしたことにはこういうことがありました」と答えていきます。基本的には、先生は、時々「ん」と、相槌をうつくらいで、何もおっしゃいません。

最後に「次は、小学校高学年の頃の、母に対する自分を調べます」「よろしくおねがいいたします。」お辞儀。屏風が閉じ、部屋の引き戸が閉まる音。といった感じで面接が進んでいくわけです。そして、3度の食事は屏風の前まで運んでくださります。精進料理なのかな、と勝手にイメージしていたら、お肉やお魚もふんだんに使われた一般的な家庭料理でした。しかも、とにかくおいしかったです。お風呂も毎日、夕方にいただきました。これまた、とてもきれいで温かいお風呂で、我が家の極寒風呂とは大違いでした。

あとは、食事のときに毎回、内観に関する放送が流れます。他の方が面接をしている場面や、内観学会の講演の話、医療の現場で内観を用いている医師のお話、などなど。最初は、うーん、なんだか押し付けがまししい感じがしていやだな、と思ってしまいました。でも、次第に、「お、面白い」と感じるようになってきました。あとあと考えると、そういう放送を通じて、自分の内観を客観視して内観の具体的な手法・技術を学ぶのだな、とありがたく思えてきました。

基本的には、上記のとおり。もう、ただ、それだけです。でも、これを続けていると、不思議な現象が自分の中に起こるのです。

しだいに、気づいていきます。「あれ、僕は、母親や父親に、とてつもなくいろんなことをしてもらっておいて、何にもお返しをしてないなあ」「そういえば、あれは当たり前のことだと思っていたけど、気づかないところでものすごい心配をかけえいたのではないか」ということに。

時間がたつにつれてそういう感情は深化してゆきます。「ああ、申し訳なかった」「自分は本当にどうしようもないやつだ」「情けない、恥ずかしい、ああ…」という感じになります。そして、言葉に出来ない感情がどろどろと湧き出して、気がついたら涙が溢れていました。

不思議なものです。泣くと、すっきりします。「ああ、こんな自分でも、生きている、生かされている、みんなが温かく見守っててくださる。ああ、だったら、しっかり生きよう。やれることを、しっかり、毎日やっていこう。過去は過去。今を、しっかり、生きるのだ」と、恐ろしくさっぱりすっきりした気持ちになります。

そんな折に、先生から「では次の時間、親から育ててもらった際の養育費について計算してみてください」と言われます。ふむふむ、と思いながら、試算してみると、みるみる膨れ上がる数字に愕然としてきます。そしてまた深まる反省と感謝。

親に対して、そういう気持ちになることができれば、あとはスムーズにいくようです。不仲な方に対して内観をしてみる場合にも、「自分の視点」ではなく「他者の視点」で自分をみることにより、相手の方をしっかりと受け止めることが出来るようになるようです。

僕の場合は、なくなった兄と仲がよくなかったのですが、今回の内観を通して、やはり大きな気付きをいただきました。いままで自分が「された」と思っていたことも、兄の視点から見てみると、そうしたくなる何らかの理由を僕が持っていた、ということに過ぎなかったのだな、と分かり、涙涙でした。

そして、そういう「自己嫌悪→すっきり」を繰り返しているうちに、もうひとつの課題を与えられます。自分がしてきた「嘘と盗み」について調べていくのです。これは、自分との真剣勝負です。法的な意味でのうそや盗みではなくても、心の中のやましい思いであったり、へんちくりんな優越感であったり、はたまたごまかしがあれば、それは嘘と盗みにも、なるというわけです。でも、それを裁くのは、他の誰でもなく、自分しかいません。

そうして、濃い時間を繰り返しているうちに、次第にシンプルなことがまたひとつクリアになっていきます。自分という人間が、いかに、自分をよく見せようとしたり、人より上に立とうとしたり、他の誰かのことを親身になって思いやったりしてこなかったか。そしてその根源にある、「我欲」の恐ろしさ、醜さ。

別に、内観だけではないと思います。座禅にしろ、瞑想にしろ、あるいは他のどんな思想にしろ、宗教にしろ、形而上学的要素をもつ何かがめざすべき「善なる世界観」は、同じようなところに行き着くと思うのです。

それは、自我がもととなり、いろんなことにとらわれてしまっている精神状態から抜け出して、他者や他のいきものたち、そして地球や宇宙とのつながりを感じられる世界なのではないかな、と感じています。仏教でいえばそれはおそらく「空」という哲学であり、アニミズムの世界ともいえるし、ジョンレノンの言葉を借りればラブ&ピース、となるわけです。

最近はやりのスピリチュアルなものにはほとんど興味がない僕ではありますが、結果的にはだいぶスピリチュアルおやじと化しています。困ったものです(笑)。でも、僕のつぼは、スピリチュアルな何かではなく、ものの認識というものにある、と以前から思っていたのですが、今回それがよりクリアになりました。

内観で調べていくのは、具体的な事実のみです。母があの時、ああいうことを「してくれた」という、事実です。世の中には親子関係がねじれて修復できない、という方がたくさんいらっしゃいます。その場合、子は親に対して「してくれなかった」ことばかりに目が行ってしまいます。そして、一度そういうめがねをかけてしまうと、そのめがねを通してしか、母のことを見られなくなります。

これは、不幸なことです。内観で重要なのは、母がどういう性格だったとか、何をしてくれなかったとか、そういうことはとりあえず脇に置いて見ないようにして、してくれたこと、お返ししたこと、心配かけたこと、だけをみるのです。

こうともいえます。『多くの「客観的事実」というピースがある。その中から、これからの人生をよりよく生きるために必要なピースだけを選び出し、並べてみる。そのような単純な「作業」を通して、物事をありのままに正しく見ることができるようになる。あくまでも、その作業の結果として、人生にたいする肯定的な感情が沸き起こる。出来事や事実そのものが直接的に感情を揺さぶるのではない。感情を作るのは、事実を都合のいいように解釈している自分の思考の癖や、欲である。そのことに心の底から気付くことが大事である。』

もともとは、創始者の吉本伊信さんという方が、浄土真宗のなかの一派の修行法「見調べ」を通してひとつの精神世界の深みにたどりついたことから始まったのだそうです。その時の気持ちを吉本さんはこうおっしゃっています。「世界中の誰もが天国に行き、自分だけが地獄に落ちるような人間だと気付いたと時に、それでも生かされていることに、転げまわってしまうほどに嬉しくなった」。なるほど、悪人正機説の流れを感じます。

そして、その喜びを誰にでも味わってほしくて、宗教色を取り除き、自身は行っていた「のまず食わず、眠らず」といった内観の手法もなくしていきました。次第にお弟子さんが集まるようになり、全国各地に内観研修所が出来ました。当時の内観法は、ひとつの「求道」としての顔色が濃かったようです。今は、もっと裾野がひろがり、カウンセリングの手法としての「内観慮法」がどちらかといえば主流になってきていると言えるのかもしれません。それはいいことなのでしょうが、ちょっと寂しいような気もしてしまいますが。

内観は、とにかくさまざまなひとに効果があるようです。僕のように、「なんとなくリフレッシュしたい」という人はもちろんです。少年刑務所や、精神病院でのカウンセリングとしても用いられているそうです。不登校の子や、引きこもりの方、あるいは摂食障害などのいきにくさを抱えている方にも、ものすごく効くように感じました。

僕に内観を勧めてくださった方は、こうおっしゃっていました。「離婚してしまいそうなご夫婦には、内観がきくのよ~」ふむふむ、です。たしかにそうだと思って納得しました。あと、ターミナルケアの現場には効果的なのでは、と僕は感じました。死を前にして、「ありがとう」と心から言えるのであれば、そこには救いがあります。



一週間の内観を終えて、たくさん泣いて、すっきりしました。帰り際に、多布施内観研修所の池上先生と記念撮影。ああ、この方の前では、絶対にうそはつけない。そう思ってしまうほどの、海のような深い眼差しが印象的な先生でした。

110127池上先生

とにかくまあ、そういう気分で帰り道の車の運転をしていたら、目にする景色さえも、いつもと違ったようにクリアに見えてびっくりしました。空気がきれいな冬晴れだったということを差し引いても、やっぱり何かちがったなあ、と今でも感じます。

家路の道すがら、虹がかかっていました。

110127虹

なんというタイミング。こういうのは苦手なんだけどなあ、と思いつつも、なんだ笑えてきて一枚パシャリ。

そんなこんなで、本当に、実り多い一週間でした。途中、かなり激しい自己嫌悪に陥ってしまい、何度か逃げたくなりましたが、そのぶんのお土産は大きかったようです。

蛇足ですが、1週間ものあいだ体をほとんど動かさなかったので、足がふらふらになりました。こんなことは、高校生の時に足首の筋を切って手術、入院したとき以来かも。

さあ、畑作業がそろそろスタートの時期です。まあ、ずっとこのままの気持ちが維持できるわけもなく、今年も農繁期の盛りにはドタバタと、そして終わりにはぐったりと、心身ともにあわただしく疲れてしまう時があることだけは間違いなしです。でもでも、今回覚えた「すっきりした気持ちに自分をもっていく内観という技」があれば、きっと大丈夫。それなりに、落ち着いていられるのではないかな。そう、確信しています。一度覚えたものを思い出すことは、あたらしく覚えるよりかはずっと楽です。あとは、日常的に「内観的」に暮らしていければ、怖いものなしですなあ。

しあわせに暮らしていくために必要なのは、一に心の健康。二に体の健康。三に、つながり。あとは、そこそこのお金。そう考えると、内観は、心の健康を得るための、なかなか有効な技だと思えます。

さてさて、皆様も、機会があれば、ぜひぜひ。内観を。おすすめですよ~。

ちなみに費用は、多布施の場合だとすべて込み込みで5万円です。お金には換算できないものを得られるということを思えば、申し訳ないくらいに割安です。



長くなりました。そして、読んでくださってありがとうございました。ほとんど下調べもせず、主観むきだしでいろいろ論じてしまいました。失礼がございましたら、お詫び申し上げます。しかしまあ、あれもしたいこれもしたいで、時間がなかったんだもん。しょうがないっす(苦笑)。

「あなたそういうことを書いておられるけど、ぶっちゃけた話はどうよ~」というご質問でも何でも、感じたままにお伝えいたします。何かお尋ねがございましたら、椛島農園tkabashima@hotmail.com までお知らせくださいね。


各種ご案内。

日本内観学会HP

自己発見の会HP(内観に携わる方、興味がある方、のネットワークです。)

多布施内観研修所 電話0952-24-1532 FAX0952-24-1534

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追記。

『しあわせに暮らしていくために必要なのは、一に心の健康。二に体の健康。三に、つながり。あとは、そこそこのお金。そう考えると、内観は、心の健康を得るための、なかなか有効な技だと思えます。』

という僕のくだりをうけて、持病をお持ちの友人から「病気持ちは幸せになれんのか~」とつっこみをいただきました。なるほど~。そういうつもりで書いたのではないのだけど、確かにおっしゃるとおりですわ。

やっぱり自分自身が大病をわずらったことがないので、その気持ちが僕には分からないということでしょう。軽い言葉をぱぱっと使ってしまいます。内観不足ですなあ(笑)


訂正!

V・E・フランクルの言葉にありました。
「幸福は、決して人生の目標ではなく、結果に過ぎないのである」
「あなたが人生に何かを期待するのではなく、あなたが人生の期待に応えるのです」

そうそう。そういうことです。これです。大事です。友人の言葉で、ふっと思い出すことが出来ました。自分の思慮の浅さに反省です。ありがとうございました~!



それにしても、なんというか、、こういう文を書いていると、八方美人&外づらよしお君に磨きがかかりますな。まっ、いっか~(笑)。

2011年02月01日 日々の暮らし トラックバック:0 コメント:1

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