告白

7月3日(土)

梅雨も後半戦に入ったようです。激しい雨が続いています。よく降ります。大気の中にはどれほどの水分が眠っているのだろう、と感心してしまいます。

友人がブログで紹介していた本を読んでみました。

100703告白

町田康 告白 中央公論新社

明治時代に実際に起きた「河内十人切り」殺人事件をモチーフにして書かれた小説です。天才と称される町田康さんの作品。町田作品は始めて読みました。確かに、なんというか、すごい。圧倒されました。

人はなぜ人を殺すのか、という命題に真正面から向かい合っています。とても暗い話です。暗い題材です。重いです。それでいて、脇役にいたるまでそれぞれの登場人物のかもし出す雰囲気はどこか明るいです。ユーモアに満ちた、饒舌な文体。文章という波が読者に押し寄せてきます。描かれる登場人物は、えげつないし、弱いし、でもどこか憎めないし、流れている雰囲気は、暗い話にも拘らず爽やかですらあります。楢山節考、みたいな感じです。

主人公の熊太郎は、そのあまりにも内省的、思弁的な性格の故に、もがきながら生きています。思っていることが、あまりに複雑に頭の中でぐるぐると回りすぎて、うまく言葉につながらないということに苦しみます。思いついたことを、そのまま、「ぽんっ」と口に出すことが出来ない。そのもどかしさたるや。
彼がだんだん追い詰められていき、結局はとんでもない殺人事件を起こしてしまうわけです。

程度の差こそあれ、たいていの人の中には熊太郎はいるように思えます。そもそも自分と他人は違うものであり、厳密にいうのならば「お互い分かり合えているかどうか」を確認することすら、不可能なことです。そういう壁にぶつかるときは、自我がある限りおこりうるものです。

それを当然のこととして冷徹に受け入れられる人は、くだらない些事にとらわれず、世間や人間関係ばかりに目を向けないで自ら「楽しいこと」の中に身をおくものです。中には、いい意味ですごく神経が太く、「そういう話はさっぱり分からん。いったい君は何に悩んでいるのだい?」という感じでいつも陽気、という人もいます。

でも、熊太郎に共感してしまう人も多いはずです。僕も「おお、熊太郎は俺だ」という念を抑え切れなかったです。なので、ストーリーが終盤に向かうにつれて、気持ちがだんだん暗くなっていきました。でも読み出したら止まらん(笑)。まいったなあ、という感じ。

繊細なココロの持ち主は、どうやって生きていけばいいのだろうか、と読み終えてからひとしきり考えてしまいます。いったんそういうドツボに入ってしまったら、どうやって抜け出せばいいのだろうか。正常と異常の間でもがいている人がどれほど多いことか。はまればはまるほど、分かっていながらもどんどん頭でっかちになっていき、理屈で自分を守ろうとする。気がつけば、ますます自意識過剰になり、自分のことばかり考えてしまうようになります。そう、熊太郎のように。

そうしていつのまにか自分で自分を追い込み、経済的なものやら、複雑な人間関係やら、体の不調などとあいまって引き起こされる哀しい結末の多いこと多いこと。内に内に溜め込んだエネルギーというものは、時には自分を傷つける方向に向かい、時には他者を傷つける方向にいってしまうものなのでしょう。熊太郎は、自分であり、友人知人であり、あの時のあの人であるのかも、と思ってしまいます。

しかしね、いつもこういう重いテーマを突きつけてくる本や映画に接するたびに思うこと。
「人は、各々自分で答えを見つけていくしかない。」

答えなどない、わからないものはわからない。分からないものは分からないままにして、とにかくやれることをやる。動く。というのも答え。
傷みを、分かり合える(と思われる)人と分かち合うというのも答え。
どうしても目が向いてしまうテツガク的命題から目をそらして、目の前の具体的なことだけに集中して楽しむのもまたひとつの道。
宗教もいいかもしれない。
生きることを何かの手段ではなく、目的そのものにしてしまうのもいい。
自分なりの処世術を磨いていくのも何よりの方法。
繊細さを、芸術や文章に昇華させていくのも、ひとつの開き直りとして美しい。
趣味にはまるのもまたよし。

そうして、よい時間を積み重ねていくうちに、だれかのために時間を使ったり、自我が消えたりする至福を感じられるようになれるのかもしれない。



まあ、人それぞれなのだろうけど、僕はといえば、なんというか、「暮らし」そのものが、ひとつの答えなのかも。という気がしてしまう。うーん、調子がいまいち、また頭でっかちスイッチが入ってしまっている、きついなあ、という時がやっぱりある。波がある。性格ばかりはどうしようもないっす。

でも、そんな時でも。目の前の農作業はこちらの都合など待ってくれません。草はどんどん伸びていきます。まくべきタイミングで種をまかなくてはいけません。大雨が降っていても、出荷のためには収穫しなくちゃ何も始まりません。人の都合ではなく、自然の都合に身を投げるしかないわけです。そうやって、目の前のことをやっていると、なんというか、とてもすがすがしい気分になります。そのうち、波も引いていきます。

あとは、実際に有機農業的な「循環」の中に身をおいてみると、命がぐるぐると回っているもの、そして自分の体も、目の前にいるトンボの体も、まわりまわってつながっているもの、さらにいうなれば自分は地球の一部である、などとちょっぴりスピリチュアルなことを自然と感じてしまうわけです(笑)。

生きもの達と接していると、なんて必死に彼らは生きているのだろうか、といつも思います。自分は、目の前にいるシジュウカラほどに一生懸命生きているだろうか、足元の小松菜のほうが凛と潔く、美しく生きているのでは、と感じることもあります。「何ごちゃごちゃと弱音をはいとるんだ。ぶつくさいわんと、彼らと同じように、ひとつの生きものとして、ちゃんと背すじを伸ばしていかなくちゃだめやろ」ということですね。まあこれも、ほどほど、バランス、の上でだけどね。

はい、そんなこんなで、大作を読んで、ココロの内が、ぞわぞわしてしまいました。ナイーブスイッチ入りまくりです。文学あっぱれ!まあ、やれることをやっていくしかないですなあ。それにしても、はやく梅雨が明けてほしいなあ。と思う今日この頃。やっぱり農閑期は、中途半端な雨休みより、バンバン外仕事を終わらせていくほうが、気持ちがよいなあ。

久しぶりに内省的に長くなりました。ちゃんちゃん。

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2010年07月03日 トラックバック:0 コメント:0

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