胸の中にて鳴る音あり

10月24日(日)

朝です。雨です。明け方、かなり早く目が覚めてしまったので、早朝の、書き物をしてしまいました。いやー、悪癖がおさまりませんなあ。長いですが、お暇な方はどうぞご拝読を。みなさんにとって、今日がよき一日でありますように。





ちょっとした読書好きの方なら誰しも、時折手にとって読み返したくなる本というものがあるのではないでしょうか。半年に一回、あるいは一年に一回くらいはパラパラとページをめくり、著者の世界観や言葉のリズムに浸ってゆく。そんな中で、暮らしの中で埃をかぶってくることのある感性を磨きなおしたり、何か大事なことを思い返したりするのは、ステキな時間の使い方だと思います。

僕にとっても、そういう本や作家さんは何人かいます。その中のひとりに、上原隆さんという方がいます。

独特の手法で、じんわりと読む人を温めてくれる文章を紡いでいる方です。市井の人々にインタビューを重ねていき、誰しもが持っているエピソードを、短編のルポタージュという物語に仕上げてゆきます。生い立ちから、平凡な日常の何気ないひとコマ、そして誰にもいえないようなコンプレックスまで、上原さんの手によって見事な読み物となり、輝きを放ち出します。

出てくる人物は、様々です。七十年間ずっと時計を修理してきた職人。介護地獄に向き合う元キックボクサー。“不倫のメリット”に悩む女性。レズビアンのシャンソン歌手。夢をみてオーディションを受け続ける若者たち。脳に障害のある子を持つハードボイルド作家。倒産した地方新聞社の元社員たちの困難な再就職。「子殺し」の裁判ばかり傍聴し続ける女。十年間第一線で活躍しながらある日突然「戦力外」通告されるプロ野球投手。ホームレス同然の生活を続け妻子からも捨てられた芥川賞作家。アパートの五階から墜落し両目を失明した市役所職員。

よくもまあ、こんなにも様々な人たちと縁をもつことができるものだなあと感心してしまいます。そして、こんなプライベートなことを、よく聞きだせるものだと驚いてしまいます。誰しも他人から土足でズカズカと上がられたくはないものです。そして覗き見られたくはないです。でも、他人の不幸やプライベートが気になる、そして好奇心をくすぐられてしまうのは、哀しいけど事実です。世の中とはそういうものなんだろうし、自分もその中のひとりです。

でも一方でやはり理性というものもあります。人の苦労を聞いて感情を揺さぶられることもあるし、なんとか自分にもできることはないだろうかと真剣に考えることもあります。これもまた世の中の一面です。

上原さんの本からあふれ出す雰囲気は、独特です。露骨な好奇心がむき出しの週刊誌記事のようになってしまいがちな話でも、温もりのある、そして読む人に力を与えてくれる話にしてしまいます。明るい話ではないものが多いし、頑張れとは一言も書かれていません。いわゆる癒し系の世界とも異なります。淡々と、淡々と、事実が書かれているだけです。でも、何かを感じさせてくれます。

事実は、哀しいほどに歴然と存在するものです。でも、それをどう読み取るかは各人の自由です。「どんなに困難な状況の中でも、受け入れなよ。何かしら前向きになれる出来事やつながり、あるいは貴方なりの処世術があるはずだよ。それは、きっとどこかの誰かを勇気づけることもあるんじゃないかなあ。そうなればいいね。」という上原さんの内なる声が、ページをめくるにつれて聞こえてくるようです。決して、そういうベタな言葉を使わずに、極めて客観的な表現で、その声を届けてくれます。事実を切り取る、摘み取る、という手法で。彼自身の主観でさえ、ひとつの客観的事実としてしまうその表現力には、もう、あっぱれです。


さて。

人は、自分が経験したことしか本当の意味では「分からない」のだと思います。病気になった人にしか、病気の苦しみは分からないものです。いじめられた人にしか、いじめられっ子の気持ちは分かりません。人とお互いに分かり合えているかどうかを確認することすら、極端に厳密に言えば不可能なわけです。それは事実だと思います。ひょっとしたら「分かる」は「分かっているみたい」「近いものを感じている」と言う方が正しいのかもしれません。

安易に「あなたの気持ちは分かるよ~」という言葉を発するのはあんまりカッコイイことではないように僕には思えます。「分かる」という前提に立ってしまうと、「分からないのだけど、分からないなりに相手のことを理解しようとする努力」を放棄してしまいがちです。「分からない」けどなんだか惹かれてしまうとか、「分からない」けど何かさせてもらえないか、というココロが僕は好きです。



自分はずっとコンプレックスを抱えて生きてきたんだ、と上原さんは書いています。インタビューの相手の方と、同じ体験をしているわけではなく、そういう意味では「分かり合える」はずもないのです。でもその文体は、まるで「分かり合えている人」が書いているかのような温もりを帯びています。きっと上原さんは、「分からない」という前提のまま「分かろうとする努力」をコツコツと積み上げている方なのだな、と読むたびに感じます。そんな姿勢で人と向かい合うことが出来れば、誰しもへの「愛」は持つことはできなくても、例えば「いつくしみ」であったり、「いとおしさ」「つながり」みたいなものは感じながら生きていけるように思えます。

もちろんその歩みの礎にあるのは、言うまでもなく自身のコンプレックスなのでしょう。よく言われることですが、コンプレックスを持つということや、自信がないということもまた、創作活動の強いモチベーションとなるようです。そうなるともう、何が損で何が得かよく分からなくなります。損得の判断など意味をなさないものなのかもしれません。

悩んでドツボにはまったり不安に足もとを掬われたりする時には、だいたい「損か得か」の判断をしているものです。突き詰めていくと、もっとも「得」をする選択肢意外の行動を選ぶことはすべて「損」という思考に陥ってしまいます。もう、この苦しさったらひどいですわ、ホントに!(笑)。自分のがんばりでどうにかなることはどうにかして、あとはもう「知らん」「分からんもんは分からん!(少し逆ギレふうに)」「いきあたりばっちりでなんとかなるやろ」とぼやいていたほうが、どれだけ健康によいかわかりません。日本人の気質として、人事を尽くして天命を待つ、ということはなかなか難しいようです。どこまでもどこまでも人事を尽くしてしまう人が多いように思えます。と同時に、その反動として刹那主義に走る若い人も最近は多いみたいですが。何事もバランスですなあ。あっ、このあたりの論述は、同様に「たまに読みたい作家」のひとりであるひろさちやさんのほぼ受け売りなので一応ご紹介まで。


というわけで、先日読んだ一冊。


胸の中にて鳴る音あり 上原隆 文藝春秋

101003上原さん


お暇な方、物好きな方はぜひぜひ。とはいっても、やっぱりちょっと癖があるし、けっして明るい内容ではないので、みんなから好かれるという本ではないですが。クラス40人いたら、マイナーな5人くらいには受けるといったところかな。あと、上原さんの本は立て続けに読むと、同じような内容が続くので、3冊目くらいから飽きてきます(笑)。だからこそ、忘れかけた頃に、半年か1年に一回、がいいのだなあ。読んでみて、「分からん!」と思われたら、それもまたよし。そこから、「分かろうとする」ことが始まるのであれば、嬉しいことです。


あっ、そういえば前にも上原さんの本の紹介を長々と書いたことがあったなあ。2回目だった。今気づいた。ありゃりゃ。ま、いっか。


さてはて、長くなりました。ご拝読感謝です。



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2010年10月24日 ひとりごと トラックバック:0 コメント:0

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